[Synopsis あらすじを伝えることだけを楽しむ]
正しく伝えよう、もしくは正しく知りたいなどと考えた瞬間に、「自分で見ればいいじゃん」という話になるわけで、伝わらないことに苛立つ必要はない。むしろ伝わらないことを伝えたいという気持ちを楽しむという試みであります。
テレビ全盛期に少年時代を過ごした私にとってこれは大発見でした。
「面白そう、観てみるね」を目指すのではなく、「どうなるんだろう、また聴かせて」でこんなに満足感を得られるとは。 まるで次回のデートの確約を得られたかのような心持ち。
思えば、子供の頃は「昨日あれ観た?」「観た観た」と話題の多くはテレビの話で、この頃の娯楽の中心はテレビであったといっても過言ではなく、それを観ないという選択肢は存在しなかったのでは無かろうか。
昔目にした文章にあった“SNSの良さは初めて会う相手でもすぐ打ち解けられること”というのと同じで、話題を予め共有しておくことで省略できるものがあるんだろう。 限られた時間で盛り上がることが目的の場合などそうだろう。
つまりはここで省略されたもの、例えばそれが「時間」だとすると、時間を省略しても構わない関係の相手なわけだ。
しかし、時間を省略できない相手、つまり同じ時間を過ごすことこそが目的の相手である場合、時間を無視できない。
ネガティブな例で言えば、大して興味もない聞きたくない話でも聞かなきゃならないわけ。 これを我慢と感じてしまうと終わるのだけど、「そもそも何故、その相手と同じ空間に居て同じ時間を過ごして居るのか」そこを考えれば思考はスムーズに着地点を見つけられるだろう、というのが何か私の中で閃いた発見だったわけですが。
ようはコミュニケーション自体を目的にすることができれば、話題を共有できておらずとも成立するのであろうということでありまして、これが通用するのは限られた相手でしょうね。