なんだかテレビを観た方がいい気がして、まあ観てるんですけどね TVerで
見逃さないで済むし、好きなときに観れるし、こりゃいいわーと思ってるんですけど
最近どうも、昔のようにリアルタイムでテレビを観た方がいい気がして…
TVerを始めその他配信サービスで、放送されてる番組は楽しんでいるので、テレビは観てるんですよね。なので「テレビを観たい」と言ったものの、実はそこはもう満たされていて、「あの頃のようにテレビを…」という気持ちが求めているのは、どうも別にあるようで。
習慣化した暮らしの中に“テレビを観る”という行動を組み込んだ時の効能について、再評価する時期がきているな、と。これは子供が大きくなりつつある中で、家族としてそういうステージに来てるんじゃないか、と感じてます。
これまで自分はテレビに何を求めていたか、漠然と考えてみると『会話のネタ』でした。誰かと話すときに何を話すか、そこにテレビで観たバラエティ、アニメ、ドラマの話題を持ってくることが大半だったと思います。しかしそれも話す相手がいることが前提の話で、友人も私も社会人になり会う時間も減れば、話すこと自体が滅多になくなり、会話のネタが消化出来なくなる。併せて観るのも控えめになる、のかも。“テレビを観る”というのはその感想を披露しあうまでがセットなんでしょうね。
そもそもテレビが好きすぎて、いつまでも観ちゃうから時間を上手く使うために、テレビを観るのをやめたんですよ、それが10年前くらいのことで。いい決断をしたとは思うんですけどね、当時はきっとそれでよかった。
で、今ですよ。なぜまたテレビを観ようというのか。それは「家の中でよく会う場所を作った方がいいんじゃないのか、家族みんなで共有できる話題を作った方がいいんじゃないのか」なんて考えてるからなんですけど、これはかつて自分が子供時代にテレビの前にあった団欒を経験してるからでしょうね。
家族の中心地に据えるとしたら、私が思うにやっぱりテレビが最適なんじゃないかな。特別なイベントでなく、勝手に集まってくる感じがいい気がするんですよね。再現性も高いというか、習慣化しやすい。ひょっとしたら、これを機にコタツももう一度(コタツもやめてるんですけど、その話はまたいつか)導入すると、一気に習慣になるかもね。
でも何より、テレビ(というかFire stick TV)のチャンネル権をいま握ってるのは子供なので「みんなでテレビ観よう」なんてなかなかやれないんですけどね。
最近買った、土井善晴さんの本で『一汁一菜でよいという提案』を読んでますが、この本の趣旨を受けて「この味噌汁がある、と思えることでどんなに疲れていても、元の場所に戻れる感覚がある」というようなことをラジオで聴きました。同様に「テレビの前の団欒には、家族関係におけるキャリブレーションの機能が期待できるんじゃないか」なんてね、思うんです。土井善晴さんの本についても、またいつか。
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